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勤務校に隣接した敷地は、某国立大学附属の小・中・幼稚園。 親が付き添う幼児、鞄に抱えられたような小学生、 そして大人びた顔つきの中学生が歩いていく。 自転車で通勤する朝、それら各種学校の前の並木道を走り抜ける時、 その長いパースペクティヴな風景がまるで人生のように思えたのは、 満更、風景の視覚的効果だけではなかったのかもしれない。 <*> 専攻科もある本校の生徒通用門から昇降口までの細長い通路の脇には 隣接校の敷地に桜の樹が何本も植えられている。 職員室から授業のクラスに行くたびに、廊下から見えるその桜の枝振りは素敵な風景をなしており、花の折は勿論のこと、青葉の頃、紅葉の時、と季節ごとの彩りが楽しめた。 その桜の枝が沢山切り落されていることに先日気付いた。 本校敷地に被さると思われる枝々が数十センチの太さのものまでバサリと落とされている。 すぐに思ったのは、きっと落葉を気にしてのことだろう、ということだった。 (腹の中では「桜切る〇カ、梅伐らぬ〇カ」などと呟きつつ…) 確かに花を愛でるのも紅葉を楽しむのも、「仕事」をする立場の方から見ると、言わば「趣味」の範囲のことであって、散り敷く花弁と葉っぱを掃除するのは大変なことには違いない。 本校の敷地に関しても、広い校庭と校舎脇に散り敷く落葉の始末のためか、木々の枝は大層短くカット気味であり、寄宿舎前の「ユリの木」の大木など、名前の由来の「百合」に似た花が咲いたのをついぞ見たことがないほどに刈り込まれている。大木に相応しい枝ぶりもなく、丸太のように立っているだけだ。以前、寄宿舎前に落ちた雀のヒナを生徒と一緒に根元に葬ったのだけど、その墓の上にユリの花が散り敷くことは期待できそうにない。 今回、隣接校の桜の枝落としに関しても、或いは本校の方から落葉の始末の件で先方へ文句でも行ったのかと思って聞いてみると、そういうことでもなさそうだ。 或いは、その下の通路に点字ブロックが敷かれているため、落葉が歩行の邪魔になることを先方が配慮してくれたのだろうか…。 昨今の、隣接敷地の間に吹く世間の冷たい風を考慮すると、必ずしもそんな暖かい配慮ばかりとは言えないかもしれない。 第一、隣接校と本校の相互の校庭の間に設置された「友好の門」も、久しく閉ざされたままとなっているようだ。(一方の扉は開いているのだが、他方のそれは施錠されているのだった) まあ、そんな用心をさせるようなトンでもない事件が近年起こっていることが、直接の原因なのだろうとは思うけれども…。 樹木というのは、人が成長する場に欠かせない額縁のような環境なのだろうと思う。 学校に桜などの樹々が植えてあるのは、入学を喜び、成長を楽しみ、卒業を祝う…季節のグリーティングカードのような意味合いがあったはずだ。 勿論、剪定したり間引くことの意味合いがあるのは判る。 だけど、葉っぱが落ちるからという理由だけで枝を伐ってしまう、とは何事だろう。 悪さをする子供の手を切り落したりするだろうか。 いや、葉が落ちること自体に木が再生する意味と必然があるではないか。 前任校では、放課後の外掃除の監督を長年担当した。 イチョウの大木が立ち並ぶ昇降口前の掃除は、確かに落葉の時期には毎日、特大ゴミ袋に五つも六つも集めたものだった。寒い中ではあったけど、生徒諸君と楽しく話しながらのその掃除の時間が懐かしく思い出される。 卒業する間際のある日、男子生徒が言った。 「合格発表の時に見たイチョウの樹は、 もっと小さかったように思うんですけど、 三年間で樹も生長するんですかねェ…」 彼は無意識のうちに自分の姿を見ているのに違いなかった。 葉を落としながらも生長する樹々は、 人が成長する場所に大切な環境を形成していると思う。 <*> cf.「樹の個性と覚悟」 http://algos.exblog.jp/4282146
by algosj
| 2008-01-29 23:48
| 植物
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