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三日休みである。 一週間のうち三日が休み。 四日働いて三日休む。 世界の創造主は六日働いて七日目が安息日。 (それ以降はどうしておられるのだろう…?) 造物主に恥ずかしくないような働きを先週しただろうか? あまり真剣に反省しすぎないようにしよう。 反省しすぎるのも出過ぎたわざである、と私は思う。 ところで、こんな休息日を頂いて、別に何して過ごすわけではない。 安息日に予定を入れるなど、そんな不遜なことをする私ではない。 書棚で探し物をしていたら、パラパラ開いた埴谷雄高の頁に モンテーニュの『随想録』の話があった。 興味をひかれたので、ついそちらに手が伸びる。 河出の「世界の大思想」の上下二巻本。 昔から在るのに、きちんと読んでいない(ような気がする)。 傍線があちこち引いてあるのに…。 早速モンテーニュの言葉を借りれば、こうである。 「私はいくらか本を読む人間ではあるが、 決してそれを覚えているような人間ではない」(第2巻第10章) さて、第1巻第2章「悲しみについて」 闘いに敗れたエジプト王プサメニトスは、王女が奴隷の服で水汲みにやらされる様を見て人々が涙をこぼすのに、自らはじっと地面を見つめていた。 王子が処刑される時にも、彼は同じ態度で堪えていた。 しかし、自分の親友が捕虜として引かれて行く時、王は自分の頭を打ち叩いて嘆いた。 その理由を問われて曰く、 「最後の悲しみだけはどうにか涙で表し得たが、最初の二つに関しては どんな表現も及ばなかったのだ。」 イフィゲネイアの犠牲の場面を描いたティンマテスは、人々の悲しみを様々に描き表したのだが、彼女の父親を描くに際し、手で顔を覆っている様を描いたそうだ。 画家のいかなる技術をもってしても、その悲しみを表現する手段を持ち合わせていなかったのだった。 又、7人の息子と7人の娘を失ったニオベは、その悲しみに堪え切れず、ゼウスに願って岩に姿を変えてもらったという。 私が興味深かったのは、ローマの弁論家ディオドロスの死だ。 彼はその学校において、自分に向けられた議論に答えられなかったため、 恥辱の極みにその場で頓死してしまったと伝えられる。 →* 堪えられない哀しさ、屈辱というものが此の世には確かにあるに違いない。 肉体の苦痛ではなく、心の痛みに堪え切れず死に到ることがあるのだと思う。 ふと、『シートン動物記』の狼王ロボのことを想い出した。 力を奪われたライオン、自由を奪われた鷲、つれあいを亡くした鳩、 彼らは傷ついた心のあまりに死ぬという。 その三重の苦しみに同時に襲われたら、如何なる勇者であっても堪えられるものではない。 大平原の彼方をじっと見つめたまま、狼王ロボはいつしか息が絶えていたのだった。 そのラストシーンは、少年時代の私の心に深く刻まれた。 徴兵制によって武士の存立基盤を失い、 秩禄処分によってその経済基盤を失い、 更に廃刀令で武士の魂と誇りを奪われた侍は、 一体どうすれば良かったと云うのか・・・ 八十歳を越えた両親が今夜大伯母の葬儀のために泊まっている熊本で、 明治9年10月24日に起こった「神風連の乱」は、そうした苦悶の挙句の士族の叛乱であった。 選挙で大敗を喫してなお現職に踏みとどまろうとした為政者が、 突然の涙目の辞任表明。世界を背負う苦しみに疲れ果て、 自分を山脈に変えて欲しいと願ったアトラスを思うとき、 麓の民には窺い知れないどれほどの苦しみが彼を襲ったというのだろうか…。
*「弁論家ディオドロスの頓死」 このエピソードの紹介の後、モンテーニュが続けて言うには、 「私はそういう激しい感情に捉われることは滅多にない。 私は生まれつき感じ方が鈍いのである。 毎日、理性によって、それを一層鈍くし、厚皮をこしらえている。」 「理性」というものは、モンテーニュの時代から魂が傷つかずに済む緩衝剤として働いているようだ。面の皮が厚くなるクリームなのかもしれない。 かくして、世の中、理性ある鉄面皮が叛乱、いや氾濫するのである。 腹の皮は柔らかすぎて、もはや刀を当てることも出来ないし、 面の皮は厚すぎて、もうどんな刃でも切ることが出来なくなっている。 猛暑と言われたこの夏、扇風機の風が暑い室温を攪拌する中、 私はどこかで貰った宣伝団扇の両面に灰色レザックの紙を貼り、 筆ペンで漢詩の一節を書き記した。 先の神風連の乱で討ち死にした加屋霽堅(かやはるかた)の遺墨から取ったもので 『豊穣の海』第二部の表紙に使われている。 この団扇を使いながら、今でもビルマ辺りの僧侶が唱えてもいるだろう書物を開いていると、何だか暑さは遠のいている(ような気がする)のでした・・・。
by algosj
| 2007-09-15 23:49
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