江戸の俳諧師黒柳召波(しょうは1727-1771)は、
漢学に於いては蕪村と同門、俳諧は蕪村に師事。
〇憂(う)きことを海月(くらげ)に語る海鼠(なまこ)哉
学生時代に此の句を知って笑い且つ涙する思い。
鬱々とした絶望感がハラワタに染みる可笑しさ。
〇いかづちの後にも春の寒さかな
春雷の轟の中に季節が動きやや春めくと云うも、
と言っても宮澤賢治の「原体剣舞連」ではない。
TSエリオットも引用する印度のテキストの一節。
「自制・利他・慈悲」が唱和されても人心いまだ
寒々しさを免れない。心底暖かい春にはまだ遠い。
〇望汐の遠くも響くかすみ哉(かな) ※
遠く汐の彼方を望むも「かすみ」が「響く」のみ。
どのように響くのか。視覚を聴覚と交響させる技。
先師芭蕉が「鴨の声ほのかに白し」と詠んだ如く、
ランボー少年のやらかしたことは既に江戸で達成。
海に向かえば、幾多の映像と音響が今も木霊する。
〇春雨に鐘のうねりや障子越
ぬるく冷たくしたたる春の雨に、遠く梵鐘が響く。
うねるように唸るように咽ぶように、鎮魂の鐘聲。
おくゆかしき日本人の耳には然し陰翳の障子越し。
〇菜の花に春行(ゆく)水の光かな
「なのはな」というN音の連続は胸に優しく響く。
「ねえ」「なあ」「のう」呼掛けの言葉も、N音。
さらさらと行く春の小川の水がそれを美しく彩る。
〇ゆく春やいづこ流人(るにん)の迎舟
長く待たれたものこそ、去るのが惜しまれるのだ。
「惜春」とは言っても、「惜冬」「惜夏」はない。
どのように此の世に於いて振舞おうとも、いずれ
迎えの舟がやって来る。来迎図を想起出来る人は
幸いなるかな。人を惜しみ、世を惜しみ、更には
生を惜しむからこそ、去る時は愛しく、胸を撃つ。
※望汐:
「もちしほ」と読み、「望月の際の満ち潮」でした。
春霞ただよう中に遠く潮の響きを聴くのでしょうか。
ハサミを振上げて潮を招くように見える「潮招き」
これも「望潮」と書く由。砕いて塩辛にした有明海
名産「蟹漬(がんづけ)」は、子供の頃の食感の記憶。
世界とは解釈される一冊の本かもしれないけれども、
「本」である以上「誤読」とも無縁ではありえない。
久しぶりに街のデパートに行き、エレベータの中で
ボーッとしていた。突然、女性の声で「誤解です!」
え?ふと我に返ると「五階」だった。