真夏の炎熱未だ冷めやらぬ宵だった。町内の仁田長屋の
広場で南部神楽の櫓太鼓打鐘が賑やかな中、鬼灯提灯が
吊るされ灯された。土臭く稍々異国調の混じった陽気な
囃子であった。「天の岩戸」が今舞い納められたところ、
フランネルや朱のナフトール染で作られた天照皇太神の
衣装が目に染みる。踊り手は屈強の男達で、毛脛を出し、
南部衆独特の方言高らかに、汗を拭い振舞い酒を煽った。
仁田長屋の夜は囃子と掛声で異様に沸立ち更けて行った。
仙台に出て来る南部の人々は、現在の季節的な出稼ぎの
農民の様に酒造り杜氏、鳶、米搗き、土方仕事師として
移動したのだった。当時仙台では、各戸で玄米を搗いて
白米とし、また季節的に味噌を煮る。炊事用に使う薪は
広瀬川上流からの流し木を、市内の大橋附近の河岸から
購入し、これを仕事師を雇って割りこなして燃料とした。
また各家庭の庭は殆ど野菜畑で、季節の菜を産すのだが、
家庭だけで為しえぬところは南部出の仕事師に依頼して、
耕作し収穫したのであった。貴重な労働力の提供である。
かくして南部氏は、仙台市民の自給自足経済の重要なる
担い手であった。その季節的な流動が遂に都市に定着し、
家族を呼び寄せて家を構え、核家族を形成しつつあった。
そのプラズマ状態が、仁田長屋を形成したとも言えよう。
市内の各種職人は売手市場だった。そんな南部の人々の
親類縁者、友人知己、同郷人が、その街の一角を形成し、
而して、また散って行った。南部神楽の賑わいとともに。
(石田徳彦『花京院周辺』十「仁田長屋」より)