白梅が一ヶ月も遅れて満開となり
続いて櫻が短い開花を見せると
一陣の風に花弁が羽衣のように舞った
地上にその花弁が散り敷いたころ
隣家の屋根を覆って梨の花が白く咲き
折りしも降り続く春の雨にうたれている
白楽天の『長恨歌』の一節に
「梨花一枝 春雨帯(りかいっし はる あめをおぶ)」
惨い死別の後、海上遥かな蓬莱宮に今や仙女として
玄宗皇帝の使者と会う楊貴妃、その玉のかんばせに浮かぶ涙
梨花に降る春雨の様はそのようであるという
脈絡もなく
確かワーズワースの詩に
「…一枝」と訳すフレーズがあったはず…
と思いつつ書棚をあれこれ探すうち
こんな詩に逢着
ODE
"INTIMATIONS OF IMMORTALITY FROM RECOLLECTIONS OF EARLY CHILDHOOD" William Wordsworth
(頌詩「幼年時代の回想から受ける不滅なるものの啓示」 ウィリアム・ワーズワース)
その第10節から適宜抜き出して訳してみる
...Ye that through your hearts to-day
Feel the gladness of the May!
What though the radiance which was once so bright
Be now for ever taken from my sight,
Though nothing can bring back the hour
Of splendour in the grass, of glory in the flower;
We will grieve not, rather find
Strength in what remains behind;…
…今日心の底から
五月の喜びを感じる者よ!
かつて光り輝いたそのきらめきが
今や永遠に視界から失われたとしてもそれが何であろう、
たとえ草原の耀きがもはや帰らず
花の盛りの時もまた戻らないとしても、
私たちは歎くまい、むしろ見出そう
力強さを 残されたものの奥底に、…
どこかで聞いたフレーズがあると思ったら
何と”
Splendour in the Grass”というタイトルの映画がある由
邦題を『
草原の輝き』(1961年エリア・カザン監督)
ナタリー・ウッド主演の青春悲恋映画とのこと。
youtubeを覗いてみたら
上記詩の"Though nothing can bring back…"の部分が
教室での朗読シーンと
ラストシーンで使われています。
白楽天の『
長恨歌』のラストは
「天に在りては比翼の鳥となり
地に在りては連理の枝とならん」という
有名なフレーズで締めくくられるのだけど
この動物形態学や植物学的真実を超えた表現は
綿々として絶ゆることない人の情を示して余りある。