その若い僧侶は座席に座るなり読みかけの本を開いた。
「…昔この国の辺りに某といふ者のありしが、一人の息女を持つ。その頃、熊野詣での客僧、某のもとを定宿とし、常に土産をば息女に与へしかば、某、息女を寵愛の余り、この客僧こそ汝が夫よ、汝は妻よ、などと戯れけるを、幼心にまことと思ひ、年月を送る。ある年、かの客僧、某のもとに来たりしが、かの息女申すやう、いつまで我を捨て置き給ふぞ、今は連れて下りあれ。客僧大いに驚き、夜に紛れ逃げ去りて、この寺の釣鐘を下ろしその中に隠さる。後を追ふ女は、水の増したる日高川のほとりに足踏みせしが、両手にて鬢を掴みて念ずればついに一体の毒蛇となりて易々と泳ぎ渡る。この寺に至りて其処彼処と尋ね這ひ回りしが、置きたる鐘を見つけ七重に巻きて火を吐けば、鐘は即座に煮えたぎり、遂に僧は焼け死ににけり。…」
本を置いて鉄橋下の川面に眼をやると、一瞬月影が差し、深い渓谷の底に巨大な一条の銀鱗がうねったように見えた。
「オン・マユラ・キランディ・ソワカ…」
毒蛇を喰らう
孔雀尊よ、御身の真言により、身毒満ちて苦しむ全ての人の苦悩を救い給え。僧の祈りを携えて、列車は夜の底を走り行くのであった。
(500字)