座席に身を埋め、頭の奥に鈍痛を感じつつ、主人公アイリスは思った。車内から消えたミス・フロイが、もしも私の幻影だったとしたら…その存在を突き止められないとしたら、私は一生重荷を背負うことになる…。
ヒッチコック監督の映画版で流れていたキーワードの旋律は、エセル・リナ・ホワイトの原作には聴こえてこなかった。丁度ロバート・ブラウニングの詩を並行して読んでいたものだから、開いた第二十三章にブラウニングの『立像と胸像』が記されているのには驚いた。詩人に先立った妻エリザベスの妖艶な写真が、アバンチュール旅行中のトッドハンター夫人の顔に重なった。
そう言えば、かつてシャム王国の乙女と同席した記憶がある。その長い名前が覚えられなかったのだが、愛称をプロイと言う由。その意味を問うと「宝石」の意味だそうだ。しばし歓談したそのひと時の記憶は既に過去のこと。ミス・フロイならぬ、この才媛ミス・プロイは私に於いて果たして実在したのか…。アイリスは、ミス・フロイの非在を信じ込まされそうになった時、食堂車の窓の曇りに残ったスペルで彼女の存在を確信した。私は、いずれタイ語の辞書で「プロイ」の意味を確認しようと思っている。
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*『
バルカン超特急(The Lady Vanishes)』
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:エセル・リナ・ホワイト
(近藤三峰訳、小学館2003)