手作りのサラダを君が美味しいと言ったから
その日を記念日としたという7月6日は、
実は七夕のイヴ。
「七夕」の由来は今やネット検索で幾らでも読める時代だけど、
しかし織姫と牽牛の年に一度の逢瀬は、やはり永遠の恋の象徴。
誰もが空を振り仰ぐ天界のラブロマンスに先駆けて、
その一夜前に二人だけの記念日を設定してしまう辺りが、
実は青臭い女学生の恋に見立てて天上神話を織り込む技、と見た。
ところで九州の母方の祖父は、絵を描くことを趣味としていた。
初孫の私が5月に産まれたその年の七夕に
牽牛織女を一対の
絵にして祝いとしてくれたのだそうだ。
(貧しい時代、その絵の裏貼りには襖紙が貼られていた)
久しく母の実家にあったその絵を、叔母がいつか私に送ってくれた。
まだカラーコピーが一枚千円近くした時に、丸善でコピーしたその絵の
複製を額に入れて、レプリカとして送り返したことがある。
その絵の牽牛は、仏壇の写真で馴染んでいた祖父の顔に似ているし、
織女の顔は、母に言わせると祖母の面影にそっくりなのだそうだ。
確かに眉と眼は母に似ている。
(祖父は再婚しているので、私が親しんだ後妻の方の祖母ではなく、
母の実母である前妻の方の祖母ということらしい)
その「言い伝え」によって、祖父母の実像は写真で見るそれよりも、
この絵の面影にこそ宿っている気がしてならない。
私たちが思うことの出来る「実像」なるものは、一体どの辺りの現実を
さまよっているのだろうか。
そんな得体の知れない幽霊のような現実よりも、或いは天界に巡る
神話的イメージにこそ「実像」が宿るのかもしれない。
もしそうでなければ、万人に注目されるイベントの一日前辺りにこそ、
それは確かに在ると言ってもよいのだろう。
一見青臭い読み古されたような現代の短歌が、そんなことを示唆してくれる。
月は指の先端に在るのではなく、その指し示す方向にしかないのだろう。
さもなくば、存在しないものに違いない。
(猫に関しては、指先にしか月を見ないのだが・・・)